菅名 礼留氏「大人の色水あそび」


2005.8月

「大人の色水あそび-12」

AMBAPALI(アンバパーリー)

  • Mangoyan™ 10ml
  • Mango juice 20ml
  • Fresh yogurt/Tropical Yogurt™ 10ml
  • Coconut liqueur 5ml
  • White Rum 15ml

Shake all with ice and pour into a short cocktail glass. If fresh yogurt is not available, use Tropical Yogurt™. Mangoyan™ can also be substituted by mango juice, if not available.
最近では、さまざまないざこざの原因が宗教だといわれていますが、そうでしょうか。

たしかに、かのマルクス(Marx, Karl, 1818 - 1983)は「宗教は麻薬だ」とかなんとか言ったようですが、宗教があるおかげで、われわれは謙虚に生きてゆけるという側面もあります。

世界3大宗教はキリスト教、イスラム教、仏教ということになっているようですが、どうにも納得がいきません。小生なら、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教としたいところです。もっともこれは、「宗教」の定義の問題ですが。いざこざをひきおこしているのは、この実はまったく「同一人物の」神様を信奉する3兄弟ではないでしょうか。もちろん、現在某国の主張する「文明の衝突」などという妄言は、自国の経済的優位を維持するための「虚構」に過ぎず、問題にもなりませんが。

鎌倉新仏教の出現以降、わが国の仏教も多様化して、「宗教らしさ」を獲得した側面もあります。事実、浄土真宗の儀式などは、それが、「教会」であることを意識せざるをえません。しかし、お釈迦様が最初にその教団を組織していったころ、仏教とはどのような実態だったのでしょう。お釈迦様の入滅までの最後の旅路を綴った「大パリニッバーナ経(Mahaparinibbana sutta)」には、初原的仏教教団のすがたがつぶさに描かれています。

ここに描かれている尊師ゴータマ・ブッダは、旧来のバラモン教の価値観にとらわれない、あたらしい修行者のすがたを提出し、当時貨幣経済の発展とともに伸長しつつあった都市新興階級の支持も得ながら、次第にその教団を組織化していく精神指導者です。その教えは、常に「意識的」であることにより行動を正し、修行、とくに意識のコントロールを通じて、存在への妄執から自らを解放し、万物の無常を悟れと説きます。この「意識のコントロール」という点は興味深く、瞑想の最中、はっきりと覚醒しているのに、眼前に落ちた雷に気が付かないといった話が出てきます。ブッダが悟りを開いたときも、彼が階層的な構造を成す無意識的な意識段階にひとつひとつ上っては、また帰ってくる様子が述べられています。それは、まるで中枢神経組織という物質に本来束縛されているはずの意識が、その物質的束縛から解き放たれて、自立していくかのような印象さえ受けます。ベック(Beck, Hermann, 1875 - 1937)などは、このようなブッダの意識構造とヨーガの瞑想との類似点を指摘して、仏教が単なる無神論でも、哲学的合理主義でもないことを強調しています。このようにみていくと、仏教と3宗教との違いは歴然としてきます。

ゴータマ・ブッダは、自らの死期の近いことを悟りつつ、教団を率いて、あてのない遍歴を続けます。ある日、教団はヴェーサーリーという大きな商業都市郊外のマンゴー林にキャンプを張ります。このマンゴー林の所有者はアンバパーリー(Ambapali)という名の美貌のプロスティテュートでした。といっても、大変な富豪で大邸宅に住んでいたというのですから、さしずめ、ギリシャはペリクレース(Perikles, 495? - 429B.C.)時代のプロスティテュートやわが国江戸時代の花魁のようなものだったのでしょうね。とまれ、信仰厚い彼女は、お釈迦様の一団が自分の所有地に滞在しているのを喜び、歓待します。ブッダは彼女の好意に、ありがたい講話をもって答えたということです。ちなみに、Ambapaliとは、「マンゴー(Mangifera indica L.)の樹を育てる女」という意味のようです。

さて、ブッダが愈々その入滅のときを迎えると、枕元の沙羅双樹が時ならぬ花を開き、虚空からは曼陀羅華と栴檀香が降り注ぎ、天には音楽が鳴ったといいます。

この曼陀羅華(マンダラゲ、インドではmandaraka)というのは、興味の尽きない花です。この花は仏典では、天国の五聖樹ということになっていますが、実際にはErythrina variegataというマメ科の落葉樹で、初夏に深紅色の花をつける植物のようです。ところが、同じ「マンダラゲ」という名がまったく別の植物にも使われているのです。こちらは、Datura metelという名のナス科の1年草で、別名チョウセンアサガオ。
その根にはスコポラミン(scopolamine)などの強い副交感神経抑制作用のあるアルカロイドが含まれており、わが国の華岡青洲が乳房切除術を行うときに用いた麻酔剤にも配合されていました。後者は西洋では、もっといわくつきの植物で、mandrakeあるいはmandragoraなどと呼ばれていますが、この根は前述の麻酔作用に加えて、願い事を叶えてくれる不思議な力をもつお守りとして珍重されていたというのです。
Mandragoraの根は人のかたちをしているそうなのですが、この目的に用いる根は、断頭台の傍で処刑された男の体液を浴びて生えたものでなければならないのだそうです。多くの場合、見つけても忽然と消えてしまうのですが、たまたま消えないものでも、引き抜こうとすると恐ろしい叫び声をあげるので、抜き手がショック死しなかった場合にだけ、市場に出回るというのですから、霊験あらたかなのも納得できます。このような迷信はさておき、このまったく似ても似つかない2つの植物が同じ名で呼ばれているのはどうしてなのでしょうか。どなたか御存じありませんか?

お話をお釈迦様にもどしますと、釈尊入滅の際には、大地震がおこり、諸天の神々がその死を嘆き、詩を詠じたということです。帝釈天は、

「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。生じては滅びる。これらつくられたもののやすらいが安楽である」
(中村 元訳「ブッダ最後の旅(大パリニッバーナ経)」岩波書店 1980)

と詠じたそうです。実はこの詩が日本の「いろは歌」の原文なのだそうです。

「いろはにほへと、、、」、ちゃんと言えますか?