菅名 礼留氏「大人の色水あそび」


2005.5月

「大人の色水あそび-9」

COLONEL RACE(カーネル・レイス)

  • Scotch / Irish whisky 2/4
  • Irish Mist 1/4
  • Coffee liqueur / extract 1/4

Pour whisky on a large ice in a tumbler. Add Irish Mist and coffee liqueur and stir.
先日、イギリスの友人から絵葉書が送られて来ました。休暇先からのようでしたが、なんとエジプトからです。おなじみのピラミッドとスフィンクスの写真がプリミティブな懐かしい感じで印刷してあります。博物館を巡ったり、ミイラの安置されている墓などに降りたりして楽しんだとのことでした。とりわけ、ナイル河のクルーズは、陸とちがって、大変に涼しく、気持ちがよかったとコメントがあります。いい御身分です。夏暑さが大変に厳しいエジプトでは、冬からこの5月くらいまでが、もっとも観光に適したシーズンのようです。イギリスでは、退職者やお金にゆとりのある人達にとって、エジプトは依然人気の観光地であることが、この国と中近東との特別な関係を思い起させてくれます。そう言えば、あのクリスティ(Christie, Agatha, 1890 - 1976)も、このエジプトを舞台にしたミステリーを書いています("Death on the Nile", 1937)。ナイル河を遡る豪華遊覧船カルナク号の中で起きる殺人事件。この周到に計画された殺人のからくりを解き明かすのは、おなじみの名探偵エルキュール・ポワロ(Poirot, Hercule)です。でも、この時はいつもの相棒ヘースティングス(Hastings)は出て来ないで、代わりに英国特務機関員のレイス大佐(Colonel Race)が出て来ます。謎のテロリストを追って、この船に乗り込んで来た大佐は、ポワロの旧知の友人で、その明晰な思考とプロの知識で、ポワロを助けます。クリスティ自身がかなり入念に作り込んだと自負するこの作品の最後は、ちょっとしんみりする結末が待っているのですが、なんといってもナイル河を取り巻くすばらしい自然に対するクリスティ自身の感動が作品を貫いていて、この小説をただのミステリーに終わらせていません。

ナイル河はブルンジ・タンザニア国境にその源を発し、地中海に注ぐまでのその全長は約6700km。世界最長の大河です。この河が夏期に定期的な氾濫を起すことが、この地域に肥沃な土壌をもたらし、爆発的に農業生産を向上させ、結果として強大な王権を生んだことは周知のとおりです。おまけに、毎年田畑の地図が変るものですから、幾何学(geometry)("geo"は「地面」、"metria"は「測ること」を意味します)の発生を刺激し、他の自然科学や工学の発達をも助けたものと思われます。「エジプトはナイルの賜物」という常套句は、ヘロドトス(Herodotus, 485? - 425? B.C.)もその「歴史("Historiae")」の中に引用しています。ヘロドトスも、この河が一般の河とちがって、冬期ではなく、夏期に氾濫をおこすことに興味をもったらしく、当時の諸説を紹介して自説も披露しています。季節風説、オケアノス(oceanos)(当時は全陸地をとりまく大洋オケアノスがあると信じられていました。"ocean"はこの語から生まれています)関連説。エチオピア高原の雪解け説。彼自身は、太陽の位置の変化によるものと考えていて、他説をこきおろしていますが、実は正解にもっとも近いのは雪解け説。でも、雪ではなく、夏期に上流地域に降る豪雨のためだそうです。

それにしても、このエジプトという国は不思議な国です。その5000年におよぶ歴史は、われわれと彼らとを微妙に結び付けつつも、また決定的に突き放します。パンやビールがエジプトで生まれたという事実は、われわれにいくらかの親近感を抱かせますが、一方であのピラミッドなどは、彼らがなにかわれわれとは全く異なる文明の中にあったことを思い知らさずにはいません。小生も、滞英期間中しばしば訪れた大英博物館で、黒耀石を左右まったく対称に削って(?)つくられた塑像の無表情な顔や爪先を見るたびに、名状しがたい「違和感」を覚えたものです。事実、ヘロドトスにとってでさえ、既にエジプトは不思議の国であったようで、さまざまな奇習が「歴史」には紹介されています。ミイラはその典型で、当時のミイラ製作について詳細な記述があります。面白いのはミイラ製作の料金に、松、竹、梅と3段階あったことです。一番高価な「松」では、すべての内臓を取り出した後、腹腔に香料を詰めて、創を縫い合わせ、70日間薬液(重炭酸ナトリウム液か)に漬け込み、洗浄後、包帯で包み、ゴムを塗り付け、人型の木箱に入れるという凝ったものですが、「梅」では、腸内を薬液で洗浄した後、例のソーダ水に70日漬け込んで、そのまま引き渡すだけ、ということです(引き渡された方はたまりませんね)。ちょっとグロテスクなのは、美貌の御婦人が亡くなったときは、死後4、5日経ってからミイラ職人に引き渡すという習慣です。これはミイラ職人が故人の尊厳を侵すのを防ぐのが目的で、実際に起きた事件からの教訓ということです。

一方、ヘロドトスはヨーロッパとエジプトとの意外な関係も紹介してくれています。彼によると、ギリシャのオリンポスの神々は殆どがエジプト起源だというのです。ゼウス、アテネ、アルテミス、ディオニュソス、ヘラクレス等々(余談ですが、ポワロのファースト・ネームは「ヘラクレス」でしたね)。例外は僅かであのポセイドンやヘラなどだそうです。エジプトの壁画を飾るあの神々とオリンポスの神々がいっしょだとは想像がつきませんでした。ここにも中近東とヨーロッパの意外に深い関係がみえてきます。

今月は、そんな不思議の国エジプトへの旅を夢見て、カルナク号の展望サロンでポワロとレイス大佐がグラスを傾ける様子でも想像することにしましょう。ポワロはフランス系なので、リキュールが好物です。船旅の前、ホテルのテラスで、御婦人にシャルトリューズ(Chartreuse)やクレーム・ド・マント(Crème de Menthe)をすすめたりしていましたが、久しぶりに再会を果したレイスには、さすがにウイスキーを注文しています。御存じのように、イギリス人は自分達の習慣と異なる流儀を受け入れることの苦手な国民ですが、折角のエジプトですから、ちょっとコーヒーの香りを加え、冷たくして飲んでみてもいいのではないでしょうか。コーヒーの豆をとるコーヒーノキ(Coffea arabica L.)は、御存じのように、ナイルでエジプトと結ばれるエチオピアの原産です。